• 父親から息子への一冊の本

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    府中市の男性(30歳)は藤沢周平の愛読者を自認する。
    初期の『密謀』などの重い作品より『用心棒日月抄』以降の、市井の人々や下級藩士の哀歓を描いた作品をこよなく愛するという。
    彼が藤沢周平ファンになるきっかけは、父親が与えてくれた。「お前も20歳になったんだから、こんなもの読んでみたらどうだ」といって渡されたのが藤沢周平の『蝉時雨』だった。

    父親と深い話を交わす親子ではなかったし、渡された本はそのままツンドク状態に。父親も「読んだか」と聞くわけでもない。

    地元の大学卒業後、東京に就職。引っ越し荷物を片付けているとき、二年ぷりに『蝉時雨』を目にした。
    そう言えば、オヤジがくれた本だなと思いながら読み出した。

    『蝉時雨』はお家騒動のとばっちりを受けて切腹した父親を持つ若き下級藩士が、苦難の中にも友に支えられながら前向きに生きていく姿を、行間に情感漂う筆致で描いた時代小説。

    「男って母親には何でも言えるけど父親と息子はそうじゃないんですよね。男同士の微妙な隙間っていうのかな、そうゆのってあるじゃないですか。
    でも、あの本を読んだおかげで、そうか、オヤジはあのとき、ハタチになった俺にこういうことを言いたかったのかって。
    東京での一人暮らしがスタートしたばっかりですから、オヤジの気持ちがわかって結構しんみりしましたねえ」

    以来、父親との距離が縮まったような気がするという。

    結婚した息子が生まれた子供に「武蔵」と名付けたことで「亡くなった夫も喜んでいるはず」と、父親が息子に贈った本のエピソードを話してくれた母親(55歳)もいる。

    その父親は愛読していた吉川英治の『宮本武蔵』を大学生となった息子に全巻揃えて渡した。

    「夫は本を読むのが好きな人でしたから、本を読むのが苦手な息子も『宮本武蔵』なら読みやすいだろうと勧めたようです」

    しかし、いくら読みやすくても長大な小説。

    読書初心者にはきつかったようで、息子は結局一、二度手に取っただけだった。

    あいつは武蔵を読んでいるのか。

    夫は二、三度、彼女に尋ねたが、そのうちあきらめたように口にしなくなった。

    母親の記憶から『宮本武蔵』も消え、息子が二六歳のときに夫が亡くなった。

    「それから三年後、息子も結婚し、十数年前のことなどすっかり忘れていたのです。ところが、男の子が生まれ、名前を武蔵と付けたことから、あのときの記憶が蘇ったんです」

    父親が没した後に生まれた自分の息子に『武蔵』と命名した息子。
    父親からもらった本のことを忘れていなかったんだと思え、仏壇に報告したという。

    父親は無口な方で、あまり会話のない親子だったという。しかし、法事などで親戚や父の友人から自分の知らない生前の父親が語られるのを耳にしたり、
    あるいは自分も親になって、何か思うところがあったのかもしれない。

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